神経生理学の基礎
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学部生のころ、 両生類学の松井正文先生の著書『カエル 水辺の隣人』を読んだ際、 まえがきの冒頭が 「カエル、この動物をきらいな日本人はあまりいないだろう。」 ではじまったので、 「さすがにそれは色眼鏡だろう」 と微笑んだ。 大学院生になって、 実験心理学の苧阪良二先生の『眼球運動の実験心理学』を読んだら、 その冒頭に 「われわれの太陽系で何が最も美しい作品かと問われたとすれば、 直径24ミリメートルの輝く丸い球、 『ヒトの眼球』であると答えたい。」 とあって、 「さすがにそれは色眼鏡だろう」 と微笑んだ。 いま、 自分が夢中になっている脳という存在のイラストを前に、 この物体についてわたしが何事かを書いたとき、 これを読む読者のかたから、 あの頃の自分がしたのと同じような苦笑いを向けられるのではないかという不安に苛まれている。
Figure 1はわれわれヒトの脳のイラストである。 これをみて、一般的にはどういう感想をもつのだろう。 わたしの目には、 この脳の外観はとてもクールで輝いてみえる。 けれどごく標準的な一般目線なら、 おそらく「気持ち悪い」という感想が素直なのではないかとも思う。 ホラー映画で脳のモチーフが出てきたら、 それはまず間違いなく気持ち悪さの演出だろう。 少なくともこの外見は、 世界中のひとびとを魅了する官能的なフォルムだとは考えにくい。
しかし昨今は「脳を鍛える」やら「脳年齢」やらといって、 なにかと「脳」というキーワードが使われるようになった。 脳トレのゲームソフトは大流行したし、 巷には『脳の…』やら『…な脳』やらといったタイトルの本があふれている。 意外にもこの気持ちの悪い物体は、 世間の皆さまに人気のようである。
脳がひとびとを惹きつける魅力は、 その「みため」ではなく、 脳が担う数々の生理・心理機能、 いわばその「なかみ」にある。 外から眺めているだけでは分からないが、 この脳という器官は、 われわれには想像もつかないほど複雑なネットワークを内に秘めている。 そしてそのネットワークの機能こそが、 科学者たちを魅了し、 研究へと没頭させ、 ついには一般の人たちの興味までも惹きつけて止まないのだ。
脳を含む神経系の科学的研究を 神経科学 neuroscienceという。 神経科学による脳機能の研究は、 わたしたち人間にとって最大のチャレンジである。 研究されるものは脳。 しかしそれを研究し、知ろうとするのもまたわれわれの脳である。 脳は自分と等しく複雑なものを知ることができるのか? これが神経科学者にとっての究極の題目といえる。
本文章では、神経系の細胞レベル・分子レベルの構造と機能を解説する。 この分野は神経科学のなかでも 神経生理学 neurophysiologyとよばれる。 本解説で紹介するような古典的な神経生理学知見は、 神経科学を学ぶうえで、 すべての土台となる必須の基礎知識である。 どうしても知識解説ばかりになるし、 筆者の拙い説明技術も相まって、 読み進めるのが困難な眠たい文章になってしまったかもしれない。 しかしこうした基礎の生物学の勉強なしで、 上っ面のおもしろいところだけ学習した神経科学の知識というのは、 えてして浅く、 断片的になりがちである。 場合によっては、 神経細胞の活動に関する基礎知識の不足が、 とんでもない知見の誤解を招くことさえある。
脳の機能を知りたいとき、 わざわざ脳の細胞レベルでのはたらきから勉強をはじめるのは、 回り道にも感じられるだろう。 しかしこの解説で扱う基礎知識は、 神経科学のおもしろさを正しく知るための、 いわば「最短の回り道」である。 この回り道なしでショートカットをしようとすれば、 きっと神経科学という樹海のなかで迷子になってしまうだろう。 文系のかたにはしんどい内容かもしれないが、 なるべく平易な説明を心がけたので、 あきらめずにがんばって読んでもらえたら光栄である。