4 直鼻猿類
前節では、霊長目に属する系統のうち、 マダガスカルや熱帯の森で独自の進化を遂げた曲鼻猿亜目の系統を紹介した。 本節以降では、 霊長目のもうひとつの柱である直鼻猿類について紹介していく。 まず本節では、 直鼻猿類に含まれる系統群のおおまかな説明をする。 他のおおくの種とは独立した系統をなすメガネザルについても、 本節で解説する。 そのうえで、次節・次々節にわけて、 残る直鼻猿類の系統を紹介しようとおもう。
4.1 直鼻猿類の特徴
直鼻猿亜目は、かつて真猿と呼ばれていたいわゆるサルらしいサルの仲間に、 メガネザル類を加えた系統群である。 曲鼻猿類の多くが夜行性だったのに対し、 直鼻猿類はメガネザルとヨザルの仲間を除いて昼行性である。 明るいうちに行動する彼らにとって、 嗅覚は夜行性の曲鼻猿類ほどには重要ではなかったのだろう。 直鼻猿類の鼻先は乾いており、匂いに対する鋭い感覚はおおくの種で失われている。 その一方で視覚能力は、枝から枝への移動、食料や捕食者の発見、 他個体の認識など、さまざまな面で重要さを増した。 そのような視覚の発達は、頭蓋骨における眼球まわりの構造に反映されている。 一般に哺乳類の頭蓋骨は、眼球を収めて保護するため、 眼窩 orbitと呼ばれるくぼみを形成する。 ドクロマークにおける目の部分の穴のことだ。 ほとんどの哺乳類では、眼窩は完全な壷状に閉塞しているわけではなく、 眼球の正面以外に、後頭側にも隙間が開いている。 しかし直鼻猿類では、眼窩後部におけるこの隙間が骨で塞がれている。 これを後眼窩閉鎖 posterior closure of orbitという。 (Figure 17)。
後眼窩閉鎖により、直鼻猿類の眼球は、 神経や血管が通る小さな孔を除けば、完全に骨に囲まれた状態となる。 このように骨でできた完全な眼窩をつくることで、 彼らは眼球を周辺の咀嚼筋の動きから隔離し、 より安定した視界を手に入れたと考えられている。
直鼻猿亜目のなかでは、まずメガネザル亜目が他の系統から真っ先に分岐する。 このときメガネザルとわかれた群はかつての真猿類そのものなので、 真猿亜目と呼ぶことがある。 実際、古い分類においても真猿類自体は単系統群だったわけだから、 「真猿」という表現自体には問題はない。 しかし相対する用語である「原猿」が偽系統とわかった現在においては、 「真猿」という表現もあまり積極的には使われないようだ。 ちなみに直鼻猿類が亜目もレベルの分類群なので、 メガネザルと真猿の分岐は下目のレベルとする場合もある。
真猿類はさらに広鼻猿下目と狭鼻猿下目に分岐する。 ただし先述のようにメガネザルと真猿類をそれぞれ下目とした場合には、 広鼻猿類と狭鼻猿類はそれぞれ小目という、 さらに下のレベルの分類群とみなす。 これらの真猿の仲間については次節以降で詳しく説明する。
4.2 メガネザル亜目
真猿類の系統の説明にはいるまえに、 本項では彼らの姉妹群であるメガネザル亜目 Tarsiiformes について説明しよう(Figure 18)。
メガネザルはその名のとおり、 眼鏡をかけたような大きな目に特徴のあるサルである。 顔面からドーム状にとびだしたレンズはあたかも分厚い丸眼鏡のようで、 近年みかけなくなったケント・デリカットの芸が懐かしまれる。
このように大きな目を必要としたのは、 彼らが進化の過程で一度昼行性になったあと、 夜行性に戻ったためと考えられている。 前述のように、曲鼻猿類は多くが夜行性なのに対し、 直鼻猿類はほとんどが昼行性である。 これはすなわち、直鼻猿類と曲鼻猿類がわかれた際、 直鼻猿類の共通祖先が昼行性という形質を獲得したことを示唆する。 そしてメガネザルの仲間も、一度は夜の生活を捨て昼行性となった。 このとき彼らは、それまでもっていた、 微弱な光を増幅してとらえるためのタペータム tapetum lucidum(輝板) と呼ばれる目の構造を退化させた。 タペータムは鏡のような反射性をもつ眼球内の層で、 網膜にあたって透過してきた光を反射させてもう一度視細胞にあてることで、 弱い光を検出する仕組みである。 暗闇でネコに光があたったとき、目だけが強く反射するのをみかけたことがあるだろう。 あれはタペータムに光が反射しているものだ。
曲鼻猿類はタペータムをもち、 暗闇でも弱い光を増幅してものを見ることができる。 一方でヒトの目が暗闇で光らないことからもわかるように、 わたしたちの目にはタペータムがない。 直鼻猿類の祖先は昼行性になるにあたり、 光を増幅するためのタペータムを退化させたのだ。 しかしメガネザルの仲間は、 その後ふたたび夜行性の生活へともどった。 このとき彼らは、再度タペータムを進化させるのではなく、 目全体を大きくするという独特な進化をした。 その結果が、メガネザル類の異様に大きな目というわけだ。 ただ、頭部全体からすれば不釣り合いなほど眼球を大きくした代償として、 彼らは目を動かす能力を失った。 メガネザル類の眼球は眼窩にすっぽりとおさまってほとんど動かすことができず、 代わりに顔全体を上下左右に向けて視対象を視野に入れる。
この他にもメガネザルの仲間は、 他の直鼻猿類とはかなり異なる形態および生態的特徴を有する。 例えばメガネザルは長い尾をもつが、 そこにはほとんど毛がなく、まるでハツカネズミの尾のようだ。 また手足の指は長いだけでなく、先端がパッド状にふくらんでいて、 これによって木の枝にしっかりとつかまることができる。 インドネシア・フィリピン諸島などの東南アジアの森に住む彼らは、 長い脚をつかって枝から枝へと跳びまわり、 おもに昆虫などを食べる。 群れをつくらずに単独で生活しているという報告があるが、 自然界における生態はあまりよく知られていない。 というのも、フィールドにおいて夜行性のサルを追跡する際には、 懐中電灯の明かりを反射して輝くサルの目が重要な手がかりになる。 しかしメガネザルの目は曲鼻猿類と違いタペータムを失っているので、 いくら大きくても光を反射しないのだ。 そのためメガネザル類の追跡には発信器および音による定位を余儀なくされ、 自然界での行動観察が困難になるという、 研究者の思わぬ苦悩を生んでいる。