神経科学で活躍するサル

3 曲鼻猿類

本節では、曲鼻猿類と呼ばれるサルの仲間を解説する。 彼らは一般的な感覚からするとあまりサルっぽくないみためをしているが、 歴とした霊長類の一員である。 われわれのよく知るサルとは異なる独自の進化を遂げたこれらの仲間の生態は、 たいへん興味深い。 また日本人の感覚における「いわゆるサルのサルらしさ」とはなんなのかということも、 こうした近縁の系統との比較においてはじめて明らかになるものである。

3.1 原猿と真猿

サルの仲間は、長らく真猿 Simian原猿 Prosimian にわけられてきた。 真猿とは「真のサル」、すなわち「サルらしいサル」のことで、 一般にサルといわれて思い浮かべるニホンザルやリスザルのような仲間たちだ。 逆に原猿とは「原始的なサル」という意味であり、 どちらかというと原始的といえるような特徴を備えた種が多い。 原猿には、ロリスやキツネザル、アイアイ、メガネザルといった種が含まれる。 そのどれもが、どちらかというと齧歯類(ネズミの仲間)や食肉類(イヌ・ネコの仲間)を彷彿とさせる外観をもち、 たしかに「サルらしくない」という印象を受ける。

しかし近年の研究により、前述の原猿類のなかで、 メガネザル類だけは真猿に近い系統であることが明らかにされた。 すなわち霊長目は、真猿+メガネザルの系統がそれ以外の種からまず分岐し、 メガネザルはそのあとで真猿の系統からわかれたことになる。 これにより、最近の霊長類の分類では真猿・原猿ということばをつかわず、 真猿とメガネザル類からなる直鼻猿類 Haplorhiniと、 かつての原猿からメガネザルを除いた系統である 曲鼻猿類 Strepsirrhini という分類を用いる(Figure 8)。

Figure  8: 曲鼻猿類と直鼻猿類

メガネザル類が真猿類の姉妹群となったため、 かつての原猿類は偽系統群となった。

霊長類が目のレベルであるので、 これらの二系統はそれぞれ直鼻猿亜目曲鼻猿亜目という亜目のレベルの分類となる。

とはいえ原猿・真猿という呼び方は直感的でわかりやすく、 長いあいだ霊長類の分類の基本として支配的だったため、 現在でも「いわゆる原猿類」などという表現として使われることも多い。 この場合の「いわゆる」というのが、 果たしてメガネザルを含んだ偽系統群としての原猿類なのか、 あるいはかつての原猿からメガネザルを除いた曲鼻猿亜目のことを指しているのかは、 文脈によって異なる。 ただそういう場面では、本来は不正確な原猿という表現を気軽に用いている時点で、 メガネザルを含むか含まないかという込み入った分類は問題としていないことが多いだろう。 一方で真猿という表現もいまなお使われることがあるが、 これがメガネザルを含むかどうかも文脈によって判断せざるをえない。 直鼻猿亜目においてメガネザル類がわかれたあとの系統のことを真猿亜目と呼ぶこともあるが、 混乱のもととなるためあまり推奨されないようだ。

3.2 曲鼻猿類の特徴

さて、本節の以降の項では、 直鼻猿類のことはしばし置いておいて、 曲鼻猿類の系統とその特徴について説明していく。 まず本項では、曲鼻猿類全体の特徴をみてみよう。

先にも説明したとおり、 曲鼻猿類はかつて原猿と呼ばれていた仲間で構成され、 一般にサルといわれて思い浮かべるヒトに似た形態とは異なる容姿をもっている。 人間中心の古い進化論では、 系統的にヒトに近しいほど「新しくて進化的に進んでいる」と考えていたため、 これらのヒトに似ていないサルたちは相対的に「古くて原始的」としてこのような名称がつけられた。 もちろん曲鼻猿類も直鼻猿類も、 現生種である以上、進化の度合いはおなじなのだが、 それだけ曲鼻猿類の外見が霊長類以外の哺乳類に近くみえるということだ。 曲鼻猿類のほとんどは大きくても体重2–3kg程度で、 ニホンザルなどと比べると小型である。 曲鼻猿類の多くはイヌやキツネのように鼻面がとがっており、 鼻の表面(鼻鏡)が黒ずんで湿っている。 この湿った鼻は嗅覚において有利であり、 視覚を進化させる代わりに鋭い嗅覚を失った直鼻猿類とは対照的である。 「曲鼻」という分類名も、 鼻腔が途中で外側に曲がることで鼻孔が左右にわかれ、 より広い範囲からにおい物質を吸気できる鼻の構造的特徴に因っている。 一方、直鼻猿類の「直鼻」とは、 われわれヒトのように顔の正面の鼻孔に向かって鼻腔がまっすぐのびていることを指す。 嗅覚に対する特化は、 曲鼻猿類の多くが夜行性であることと関係していると考えられる。 闇夜で生活する彼らにとっては、 視覚よりも嗅覚のほうがより重要であったのだろう。

曲鼻猿類は、キツネザル下目・アイアイ下目・ロリス下目の3下目によって構成される。 系統的にはまずロリス下目が他の系統から分岐し、 その後キツネザル下目とアイアイ下目がわかれる。 ただしアイアイは下目とせず、 キツネザル下目のなかで分岐する上科のレベルとする場合もある。 以下ではそれぞれの系統について、 順に説明していこう。

3.3 キツネザル下目

キツネザル下目 Lemuriformesのサルは、 文字通りキツネのような細長い顔立ちを特徴とする。 英語名のlemurをカタカナ読みしたレムールとも呼ばれるが、 実際の英語の発音は「りーまぁ」のようにi母音の伸ばし音になるため注意が必要だ。 キツネザル下目は、 大別するとコビトキツネザル科・キツネザル科・インドリ科の3つのグループからなる。

コビトキツネザル科 Cheirogaleidae のサルはキツネザル下目のなかでもっとも小型で、 その体重は大きくてもほとんどが1kgに満たない(Figure 9)。

Figure  9: コビトキツネザルの剥製

コビトキツネザルは英語でdwarf lemurという。 剣と魔法の世界が好きな人間としては、 ドワーフを「コビト」と訳すのは少々不思議な心持ちである。

なかでもネズミキツネザル77 鼠なのか狐なのか猿なのか…。 の仲間は非常に小さく、 もっとも小型の霊長類として知られるピグミーネズミキツネザルに至っては、 成獣でも体重が50g弱しかない。 一般的な硬式テニスのボールが50gくらいなので、 それとおなじか、それよりもひとまわり軽いと考えると、 その霊長類としては突出した小ささがわかるだろう。 コビトキツネザル類は小型なうえ個体数が少なく、 生態観察報告が不足しているが、 基本的には夜行性の樹上生活をし、 果実や昆虫、カエルなどの小型脊椎動物を食べるといわれている。

キツネザル科 Lemuridae のサルはコビトキツネザル科と比べると大きく、 成獣で4–5kg前後のものがおおい(Figure 10)。

Figure  10: キツネザル科の仲間

左: ワオキツネザル 中: エリマキキツネザル 右: ブラウンキツネザル

ワオキツネザルなどは、 その特徴的な尻尾と愛嬌のあるしぐさから人気があり、 キツネザル類のなかでは有名かもしれない。

Figure  11: ワオキツネザル

ワオキツネザルの名前は、 白黒の輪が連なったようにみえる特徴的な尾(「輪尾」)に由来する。

(余談だが、筆者は何かしら世界名作劇場のような古いアニメで、 ワオキツネザルのキャラクターをみたことがある気がしたのだが、 さきごろ検索してみた限りでひっかかったのは「エレキツネザル」だけだった88 相手プレーヤーによって破壊されると、 次の相手ターンのバトルフェイズをとばしてくれる。 自分のデッキに採用する気にはならないが、 相手がつかうと地味にやっかいに感じるロックパーツである。 。) ワオキツネザルは体温調節が苦手らしく、 寒い日には地面にどっしりすわり、 腹を太陽にむけて日光浴する姿がみられる。 このことからわかるとおり、キツネザル科のサルのなかには、 コビトキツネザル類と違い昼行性・地上性の種もいる。

インドリ科 Indriidae のサルは、見た目はキツネザル類によく似ており、 ほとんどが昼行性である(Figure 12)。

Figure  12: インドリ

白い体毛の美しいインドリ。 [ウィキメディア・プロジェクトより転載(CC BY 2.5 by Pierre-Alain Marzio)]

キツネザルとのいちばんの違いは大きさで、 インドリ類は7kg前後、大きい個体では10kgほどにもなる。 霊長類全体からしてみれば中程度の大きさといえるが、 曲鼻猿類のなかでは最大だ。 またインドリは、朝方、群全体で非常に大きな声で鳴くラウドコールという行動をすることでも知られる。 しかし残念ながらインドリの人工飼育はほとんど成功例がないほど困難で、 野生個体をみにいかない限り、彼らの大きな体躯や歌声にお目にかかるすべはない。 ちなみに系統名からの直感とはやや外れるが、 キツネザル科のサルたちはコビトキツネザル科よりもこのインドリ科と近縁であり、 キツネザル科+インドリ科の系統に対してコビトキツネザル科が姉妹群となる。 まあインドリは明らかに「でかいキツネザル」という外見なので、 容姿さえイメージできていればこの系統関係に疑問はないだろう。

これら多種多様なキツネザル下目のサルたちは、 じつはすべてマダガスカル島にのみ生息する固有種である。 キツネザル下目の祖先は、マダガスカル島がゴンドワナ大陸から分離したあと、 アフリカ大陸から移入したと考えられている。 彼らがどうやって海を越えたのかは知られていないが、 幸運なことにマダガスカル島には、 キツネザルの祖先種と自然資源を競合するリスなどの小型哺乳類や、 彼らをつけ狙う捕食者がいなかった。 そのためキツネザル類は豊富な自然環境へと適応的に放散進化し、 形態・食性・行動において多様な種が生まれることになったと考えられる。

3.4 アイアイ下目

前項のキツネザル下目と同じく、 アイアイ aye-ayeもまたマダガスカル島において独自の進化を遂げた固有種だ。 アイアイはアイアイ下目に属する唯一の構成員だ。 つまり系統樹において、アイアイ下目以下には、葉にたどりつくまでに一度の分岐もない。 しかし階層分類においては、他の系統群の分類レベルと合わせるため、 このような場合にも「アイアイ科–アイアイ属–アイアイ」 のように科や属などのレベルを形式的につくる。 これを分類学方言で「アイアイは本種のみ1属1種でアイアイ科を構成する」 などというもってまわった表現をするが、 ようは科のレベル以下での分岐がないよ、という意味である。 ただ、もちろんこれは「アイアイがある時点から進化するのをやめてしまった」 ということを意味するわけではない。 種自体は時間とともに変化し続けているが、 それがいくつかの質的に異なるグループにわかれる機会を得なかったり、 わかれた他の群がすべて絶滅して1種だけが現在に残ったということだ。 実際アイアイには、 比較的最近(2000年前ごろ)に絶滅したジャイアントアイアイという近縁種がいたことがわかっている。

さて、いうまでもなくアイアイは、 日本においては「おさるさんだよー」の童謡によってよく知られた存在である。 しかしそのじつ、これもまたよく知られているように、 アイアイの外見はどうひねってみても「おさるさんだ」とはおもえない(Figure 13)。

Figure  13: アイアイ

長時間ねばって、輪郭がわかる程度にぶれずに撮れたやっとの全身像。 暗期にはかなり活動的に走り回っているので、 これ以外は黒い霧が横切っているだけの写真しか撮れなかった。

アイアイの体は真っ黒な毛に覆われ、 ややつぶれた鼻と大きな耳はコウモリを彷彿とさせる。 そして大きく見開いた目と異常に細長い指は、 もし密林で出会ったら、申し訳ないが不気味といわざるを得ない99 …と、いちおう一般論としてはこう書いたが、 筆者個人的には愛嬌があって超かわいいとおもっている。 。 実際アイアイは、マダガスカル現地においては「悪魔の使い」として不吉の象徴とされ、 みかけたら殺して白い布にくるんで埋める風習があるほどだ。 またアイアイは農作物を荒らす害獣として駆除されることもあったという。 こうした要因が開発による生息域の減少と重なり、 近年、アイアイの自然生息数は減少傾向にあると推測されている。

アイアイは雑食性で、果樹の実や花の蜜に加え、 果実のなかや木の幹のなかに隠れた昆虫などさまざまなものを食べる。 果実は果肉を食べるだけでなく、ナッツのような固い殻に覆われた種子も、 殻を割ってなかの胚珠の部分を食べる。 このように固い種子を割ったり、虫をさがして木の幹に穴をあけたりするため、 アイアイは門歯(前歯)がよく発達しており、一生伸びつづける。 また歯であけた穴から指を差し込んで種子の中身や木のなかの虫をほじくりだすため、 前肢の中指(第三指)のみが異様に細長くなっている。 この細長い中指は非常に特徴的で、 マダガスカル島ではアイアイにこの指で指されたら死ぬという言い伝えがあるそうだ。 そういえば余談だが、童謡の『アイアイ』には「しっぽのながいー」という一節がある。 たしかにアイアイの尻尾は長いのだが、 おおくの霊長類に共有されたそんな形質について言及するくらいなら、 おなじ「長い」でもこの中指について触れたほうがよほどアイアイの特徴をとらえていると個人的にはおもう (Figure 14)。

Figure  14: 固有形質に基づく『アイアイ』の歌詞の提案

従来の歌詞(上段)と分類上より重要な形質に基づく新しい歌詞(下段)。 旋律的にも無理のない歌唱が可能である。

3.5 ロリス下目

曲鼻猿類の最後の仲間は、 ロリス下目 Loriformesである。 マダガスカル島にのみ住んでいた先の2下目と違い、 ロリス下目は東南アジアおよびアフリカという広範囲に分布する。 ロリス下目の仲間は全体に小柄で目が大きいという特徴をもつが、 そのなかでは比較的大きくてゆっくりと行動するロリス科のサルと、 より小型で活発なガラゴ科のサルに大別できる。

ロリス科 Loridae のサルはまるで爪のないナマケモノのような体躯をもつ(Figure 15)。

Figure  15: スローロリス

動作は緩慢だがのスローモーションのようにじわじわ動きつづけるため、 どうしても被写体ぶれしてしまうスローロリス。 前肢の人差し指が短くなっているのが辛うじて確認できる。

尻尾は退化して痕跡的で、耳も小さく目立たない。 生えそろった短い毛とずんぐりとした体格は、 まるでぬいぐるみのようである。 さらにロリスの仲間は、ナマケモノとおなじく動作が非常にゆっくりなのも特徴だ。 ロリス科のサルであるスローロリスの名は、 まさにそのslowな挙動からつけられたものだ。 スローロリスは、当初誤ってナマケモノの一種として分類されていたという逸話まで有している。 ロリス科には、東南アジアに分布する仲間(ホソロリス亜科)のほか、 ポトと呼ばれるアフリカに分布する仲間(ポト亜科)がいる。 両者は地理的に離れた場所に生息するにも関わらず、 形態・生態的にも分子遺伝学的にも非常に類似している。 他の形態特徴としては、手の第二指(人差し指)が短く退化し、 母指と他の3指のあいだをひろく開けるようになっている。 ゆっくりと動くためにはそれだけ姿勢を安定させる必要があるが、 彼らはこうして、マジックハンドのように2方向から枝をしっかりとつかむことで、 樹上での安定性を獲得している。

一方、おなじロリス下目に属するガラゴ科 Galagonidae のサルたちはより俊敏である(Figure 16)。

Figure  16: ショウガラゴ

この外見からサルの仲間だと見抜くのは至難の技だろう。

ロリス科の仲間がゆっくりと歩いて移動するのに対し、 ガラゴ類は枝から枝へと飛び跳ねて素早く移動する。 尾も長く、耳も大きいので、 さしずめ小型のキツネザルと後述のメガネザルの「あいのこ」といった外見である。 なかでも小型のショウガラゴは、 その容姿と独特の鳴き声からブッシュベイビー bushbabyの俗名をもつ。 世界名作劇場のアニメ作品『大草原の小さな天使 ブッシュベイビー』で有名だろう。 また、島田ゆか氏の絵本『バムケロ』シリーズのサブキャラクターとしても登場するので、 日本では比較的知られた存在といえるかもしれない。 ガラゴ科のサルはすべてアフリカ大陸に生息する。 ちなみにガラゴはカタカナ表記ではギャラゴと書いたりもするが、 英語の発音としては「ぎゃれぃごぅ」のようになり、 二重母音となった2音節目にアクセントがおかれる。

近年ロリス下目は、エキゾチックペットとしての販売目的での密猟により、 生息数が減少している。 とくにスローロリスなどのロリス科の仲間は、 愛らしい外見とゆっくりした挙動により人気が高く、 高額で取り引されているようだ。 かわいい動物をペットとして傍におきたい気持ちはよくわかるが、 人間のエゴのために熱帯の森から彼らの姿が失われることはあってはならない。 早急な保護体制の整備が必要とされている。