神経科学で活躍するサル

2 霊長類

前節では、現代分類学の基本である系統分類学について、 用語の解説と分類における原理の説明を行なった。 本節以降では、それらの基礎知識をふまえたうえで、 個々のサルの系統の分類をみていく。 まず本節では霊長類全体に共通の特徴を解説する。 また本稿でとりあげる霊長類の系統の範囲を説明し、 その理由についても簡単に触れる。

2.1 霊長目

前述のとおり、われわれが日常生活においてつかう霊長類ということばは、 分類学的には霊長目 Primatesという目のレベルを指す。 「霊長」という名前は、 「万物の霊長」などという表現があることからもわかるとおり、 「神秘的な力を備えていてもっともすぐれている」といった意味合いだ。 こうした命名は、霊長類がヒトにもっとも近しい(というか正確にはヒトを含む)動物群であり、 それゆえ自然界の頂点に立つ特別な存在だという、 人間本位な進化の認識の産物である。 もちろん実際には、 生命の誕生から現在までの歴史を生き抜いてきたという意味で、 現生の生物のあいだに進化的な優劣はない。 そのような観点から、 ヒトを「霊長」とするナルシシズムを廃して霊長目を指したい場合には、 単にサル目といういいかたをすることもある。 とはいえ本稿においては、霊長類ということば自体、 とくに「優れた」というニュアンスは含まない一般語として十分に定着していると考え、 以降も霊長類という表現を用いることとする。

2.2 本稿で扱う霊長類

Figure 7に霊長類全体の系統樹を示した。

Figure  7: 霊長類の系統樹

分岐のない枝における形式的な階層は省略した (e.g., アイアイ科・メガネザル科)。 アスタリスク付きのものは日本モンキーセンターで、 プラスは上野動物園で、 シャープはよこはま動物園ズーラシアでみることができる。

霊長類は、 まるで齧歯類のような小型のサルから、 チンパンジーなどの類人猿、 そしてヒトまでを含んだ広範な分類群である。 これらそれぞれの生態について、 種のレベルでまで詳細にとはいかないが、 およそ科・属のレベル程度まで分類しながら紹介するのが本稿の目的のひとつである。

ここで、本稿において解説の対象とする種の範囲について明確にしておきたい。 まず本稿では、ヒトにおよびヒトに近縁の絶滅種 (化石人類 fossil hominid)については扱わない。 われわれがヒトである以上、 ヒトの進化の歴史については特別に細かな研究が行なわれているのだが、 それらをすべてカバーした解説は門外漢たる筆者の手に余るからだ。 よって本稿における霊長類とは、 いわゆる「狭義の霊長類」、 すなわちヒトをのぞく霊長類 non-human primateのことを指す。

もうひとつ、明確にしておかなければならない。 チンパンジーやゴリラなどの類人猿がお好きなかたには申し訳ないが、 この文章では類人猿の系統についても扱わない。 そもそも、本稿のタイトルが『神経科学で活躍するサル』であることに注目してほしい。 決して『神経科学で活躍する霊長類』ではない。 これは「類人猿のことは脇においとくよ」という筆者の心中を反映した表題である。 ここでのサルとは、英語でいうところのmonkeyのことだ。 monkeyとはニホンザルやアカゲザルのようないわゆるサルらしいサルのことであって、 オランウータンやチンパンジーなどの類人猿は英語ではapeという。 不思議なことに日本人は「サル」ということばに類人猿を含めるきらいがあるが、 筆者としてはmonkeyとapeははっきりと区別したい。 そもそも「サル」ことmonkeyが好きな人間の目からすれば、 monkeyとapeは似ても似つかない。 日本人はこれを一緒くたに「サル」と呼んでしまうのだから、 いささか腹立たしい。 映画“Planet of the Apes”も、英題はapeと銘打っているにも関わらず、 邦題は『サルの惑星』だ。 解せぬ。

ともかく、本稿では(ヒトも含めて)類人猿を解説の対象としない。 正直に白状すると、これには筆者が類人猿嫌いだからという理由もある。 さきごろはチンパンジーがバラエティ番組に登場したりもしていたが、 類人猿に対する世間様の好評が、筆者にはどうにも理解できない。 なぜかかわいいというイメージが定着しているようだが、 大型類人猿は基本的に猛獣である。 チンパンジーの実物など、 一般的には「ゴリラ」ということばから連想される体躯によほど近い。 掴みかかられたら人間なんてひとたまりもないし、 直接接触せずとも、 隙あらば大きな石やコンクリート塊を投げつけてくる危険極まりない動物だ。 実際、筆者が京都大学 霊長類研究所の見学にいった際、 こちらはただ歩いていただけなのに、 例のアイちゃんに檻ごしに巨石を投げつけられてたいへん恐ろしい思いをした。 また昨今も、 動物ショーに出演したチンパンジーが女性スタッフに襲いかかって怪我をさせる事件が起こっている。

さらにいうと、じつはチンパンジーどもは、 同じ地域に住むサルを追い立て、狩って食うのである。 彼らはコロブスなどの華奢で非力なサルを捕まえては、 手足をつかんで木から引き摺りおろし、地面に叩きつけて殺す。 逃げるのが遅い子連れの母ザルから非力な子ザルをもぎ取り、 その四肢を引きちぎって殺すのだ。 どうしてこのような行為をする捕食者を、 その狩りによって殺されるものたちと同じ「サル」と呼び、 あたかも知的で聡明な生き物として紹介などできるだろうか。 サルたちを主人公とする本稿においては、 類人猿は憎き天敵でこそあれ、 ともに紹介する対象とはなりえない。

まあ、悪口ばかりいっていてもなんなので、 いちおう本稿で類人猿を取り上げない客観的な理由もあげておこう。 じつのところそれは、たいへん簡単なはなしだ。 ようは、類人猿は神経科学で活躍していないのだ。 正確にいうと、たとえば機能的脳イメージングの研究やさまざまな臨床研究など、 ヒトを対象とした神経科学の知見はいうまでもなくごまんとある。 だから類人猿の一系統たるヒトは、神経科学で活躍している。 そして近年では、それらの方法をヒト以外の類人猿にも適用し、 MRIなどをつかってチンパンジーの脳機能を調べる試みなども現われている。 よってヒトを除く類人猿の神経科学研究もないわけではない。 しかしそれらは、あくまでヒトですでに研究されていることをヒト以外の類人猿にも応用しただけである。 というのも、類人猿はその多くが絶滅の危機に瀕した保護対象動物である。 それゆえ彼らには、 たとえば電極を直接脳に刺して神経活動を記録するような侵襲的な研究手法は使えないのだ。 またチンパンジーなどは、その高度な認知機能やヒトとの近縁性が明らかにされるにしたがい、 近年では実験動物として扱うことがそもそも避けられている。 類人猿はいまや、「実験に参加していただく実験協力者」なのだ。 よってヒトのあたまに倫理的に電極を刺せないのと同様、 チンパンジーの脳も侵襲的な方法で調べるわけにはいかない。 だとすればチンパンジーやオランウータンといった類人猿自体(およびその脳機能)に特別の興味があるのでない限り、 ヒトでもできる研究をわざわざ凶暴な類人猿で行なう意味はない。 結局のところ、類人猿を対象とした神経科学研究は、 類人猿を対象としているということ以外の独自性が見受けられない。 これが、本稿で神経科学における霊長類の活躍を概観するうえで、 類人猿は議論の対象としない理由である。

2.3 霊長類の特徴

個々のサルの種についてみるまえに、 霊長類一般について普遍的にみられる特徴を説明しておこう。

いうまでもなく、サルは木に登る。 動物園にサルをみにいくと、 いわゆるサル山という、 岩と丸太で組まれたアスレチックのような環境で飼育されていることが多い。 サルたちは手足を器用につかって、 サル山を縦横無尽に駆け回っている。 この高所に登り、木と木のあいだを跳び渡るという能力は、 おそらくすべてのサルに共通して発達した特徴である。 それゆえ多くのサルの種には、 木登りのために有利な身体的特徴が共有されている。

たとえばわれわれヒトを含め霊長類は、 手の親指が残りの4本の指と対向している。 これにより2方向から巻き込むように、 よりしっかりとものを把握することができる。 また多くの霊長類では、 爪が鉤爪から平爪へと変化している。 平爪はものをひっかけたり傷つけたりするには不都合だが、 手指の精密動作には向いている。 すなわち霊長類は、 ものにへばりつくように爪をひっかけて登る能力を失う代わり、 手足をつかってしっかりと枝を握り、 木のうえでも安定して移動する能力を発達させたと考えられる。 またよく知られたように、 霊長類は両目が顔の前面に並んでいる。 そのため視野範囲は狭くなってしまうが、 視野の中央においては両眼視差の利用による距離感の把握に優れている。 これも樹上生活において、 枝と枝との距離を正確に認識するために役立つ能力といえる。